社会科学 ホーホー村教育研究所
中華民国の近代史 2000.3.19 →少し私の記述が混乱しているところがありました。ごめんなさい(訂正 3.25)
「台湾総統に野党・陳氏」というのが、19日の道新朝刊のトップ記事でした。こういうものが、どういう意味なのかが、なかなかわかりにくい。新聞には、解説記事というものも載っているけれど、ぼくなんかは歴史に落ちこぼれた人間なので、やっぱりよくわからない。けれども、今や中華人民共和国は、アメリカ合衆国についで2位の貿易相手国。台湾で大地震があったら、日本でもコンピュータ購入に支障が出るほど、影響力の強い国のことで、一般の人たちも知らないではすまされないことです。
日本や中国歴史は、漢字が多いのでイヤ。ヨーロッパ史は、カタカナで似たような名前が出てくるのでイヤ。といって、ローマ字ならもっとイヤ。そんなぼくに歴史の面白さ、意義をわからさせてくれたのが、板倉さん(仮説実験授業)で、今はそれほど嫌いではありません。でも、どうも歴史がイヤな人間は、普通のようです。
どうして、歴史が難解かというと、その原因の大きなものが、@結構マニヤがいて、つまらないことでも楽しむ人間がいること A一部のエリートがいて、そのエリートが「つまらないこと」、「おもしろくもないこと」をわかっていまう能力があって、普通の人がわからないことでもへっちゃらで書いていまうのが、原因だと思います。
@のマニヤは、趣味の世界だから、まぁ許せますが、許せないのはAです。こういうのは、歴史に限らず、すべての分野であるなぁ。
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それで、ぼくなりに今回の事件を歴史的にたどってみます。そういう事が、わからないと、2つの中国とか、1つの中国とかがわからない。これは、ぼくがわかって書くのではなくて、怪しげなぼくの近代中国史を確かめるためも書くことにします。歴史音痴のぼくがわかるようにそれで書けば、かなりの人にもわかるのではないかな?
あまり自信がないので、間違いがあったら、ぜひ教えてください。
まず、清(しん)という国がありました。これは、昔の中国です。日本人のように昔から、日本が別の国になったことのない人間には、昔の中国に清(しん)だの、宋(そう)だのがあった事自体がもう難解。
昔の中国とは、
@ほぼ今の中華人民共和国の領土のあたり
A今の民衆たちの祖先がいたところ
ということでしょうか。
これは、当たり前で日本でも同じみたいですが、中国では、支配者が別の民族ということがあるのです。してみると、国には、@領土A人民B支配者でが構成要素となるのでしょうか?
さて、その清ですが、中国ではシンという名の国が4度ありました。最初は、晋で、?〜BC376年。春情戦国時代の列国の一つ。次は、秦で、?〜BC207で中国最初の統一国家を築いた「秦の始皇帝」、万里の長城を作った人としても有名です。次にまた同じ漢字の、晋で、西晋(265〜316)と、東晋(317〜420)。そして、清(1616〜1912)です。
日本の江戸時代の始まりが1603年で、明治維新が1868年ですから、清は、ほぼ江戸時代と対比させられる国です。清は、漢民族に対しては、異民族の満州人がたてた征服王朝で、中国文化には、保護と弾圧の両面をもってのぞみました。そとして、この時代に中国の領土は、最大になり、文化も発展をとげました。札幌の豊田さんが作成した「部首カルタ」の研究のお手伝いをした時、目にした『康熙字典』は、この清の時代の編纂です。
末期には、政治の腐敗・軍事力の低下・社会矛盾の深まり「白蓮教の乱」などが、続発。さらに、「阿片戦争」を機にヨーロッパ植民地主義の侵略を受けて、半植民地化が進行。内政改革を目指した「洋務運動」、「変法自強運動」が挫折。日清戦争(1894〜11895)にも負け、こうした中で、革命運動が起こりました。孫文(そんぶん)らの率いる「辛亥革命」(しんがいかくめい)1911年により、翌年宣統帝の退位により滅亡しました。
「辛亥革命」の結果、1911年12月には、孫文を臨時大統領としましたが、1912年2月、清帝の退位と引き換えに袁世凱(えんせいがい)を臨時大統領にすることになります。袁世凱は、軍事力を背景に独裁の強化をはかりましたが、それに反対する1913年7月の「第二革命」、1915年12月の「第三革命」があり、次の年の6月病死してしまいます。その後の中国は、軍閥混戦状態となってしまいます。
辛亥革命に加わった、蒋介石(しょうかいせき)は、1928年国民政府主席に就任して独裁権を強化。1948年に総統に当選するのですが、毛沢東(もうたくとう)率いる革命軍に敗れ、台湾に逃げて、台湾で「中華民国」を作ることになります。それが今の台湾政府の始まりです。それで「中国全土は、我が支配下にある」と言い張っているわけです。一方、毛沢東らは、1949年「中華人民協和国」の成立を宣言し、「台湾も自分たちの領土であること」を宣言します。「お互いがお互いの領土だ」と主張してゆずらないのです。
「中華人民共和国」は、共産主義の国であることもあり、資本主義列国は、蒋介石率いる「中華民国」と国交を開きました。しかし、現実としてある大国「中華人民共和国」のことは、無視できるものではなく、現在は、国際的には、「中華人民協和国」の主張を認め、[台湾も中華人民共和国のもの」と、いう立場をとる国がほとんどなわけです。この主張を「1つの中国」といいます。
この件に関しては、最近も東京都の石原都知事が、それぞれの国を認める発言( 2つの中国)をしたことで、物議がありました。
今回のトップ記事、「台湾総統に野党・陳氏」というのは、蒋介石の流れをくむ、国民党の連戦を野党民主進歩党の党首陳氏が大差で破ったということです。
新、総統の陳水扁(ちん・すいへん )は、民主進歩党の党首で、49歳。連戦(れんせん)を13%上回る39%の得票率で当選。民主進歩党は、「台湾の主権は、大陸の及ばない」と90年の全国大会で決議し、91年の党委員代表大会で、台湾独立条項を党綱領に正式に盛り込んでいます。すなわち、「2つの中国を認めろ。台湾は、中華人民共和国から独立しているんだ」と、主張している党の党首が台湾総統になったわけです。これが、新聞のトップになったのは、これらの国との付き合い方、アジア太平洋地区の安全保障の枠組みにも大きな影響があるということだからです。
蒋介石(しょうかいせき)が、台湾に行ったときに、「台湾にもとから住んでいた人たちはどう思ったのだろう」と、気になっていましたら、昨日の「ニュース・スティーション」で、「蒋介石一派は、台湾で特権階級で、国民党は民衆から反感を買っていた」ということです。やっぱりね。これは、イスラエルやリベリアみたいなもんだものな。(2000.3.21)
また、この選挙戦の最中に中国政府は、「台湾の独立には武力行使も辞さない」といって威嚇していましたが、選挙後には、「1つの中国を認めるなら話し合いに応ずる」といっているようです。
この選挙の敗北で、国民党の総統、李登輝が抗議され、台湾全土で騒乱が続き、台湾のゼネコン株が急落とのことです。(2000.3.21)
24日には、李登輝は、党主席を辞任においこまれました。代行には、今回選挙で破れた連戦が就任とのこと。またこの選挙の立候補のごたごたでで国民党を除名された宋楚瑜は、陳水扁との得票差わずか3%で、「新台湾人民党」を旗揚げしました。(
3.24)
キリスト誕生を紀元とする西暦がいつから使われるようになったか。多く本には、[現在使われている「グレゴリオ歴」以前は、ユリウス・シーザーが制定した「ユリウス歴」が使われて、季節と暦の誤差が10日にもなったので、1582年当時のローマ法王グレゴリオ13世が、10月4日の次の日を10日とばして、10月15日とした]」というようなことが書いてあります。これは、季節の問題より、宗教教上での日付が問題となったようです。しかし、シーザーの暦の1年から数えて、2000年目というわけではありません。ユリウス・シーザーが「ユリウス歴」を制定したのは、紀元前45年です。自分の制定した年をわざわざマイナスにするはずがないではありませんか。ただいたいキリストがいつ生まれるのかシーザーは、知るよしもありません。ですから、西暦が発明されたのは、もっとずっと後のことで、後世の人がさかのぼって、キリスト誕生の年(少しずれているらしいですが)を1年としたはずです。
ぼくの持っている暦関係の本を片っ端から調べてみました。すると、このことを書いてある本もありました。
「キリスト紀元は、ローマの大修道院長のディオニシウス・エクシダヌスによって初めて用いられたものである。それは復活祭の日付を決定する表の中で、それまで使用されていたディオクレス紀元に変わって、より使いやすいものとして採用されたものである。彼は、ディオクレス紀元の248年をキリスト紀元、いわゆる西暦の532年に等しいと置いた。エクシダヌスが何を根拠に、この等置を決めたのかはわかっていないが、この紀元が一般に支持され、その後、数世紀間の間に西欧で確固たる地歩築いた」
内田正男 『こよみと天文・今昔』(丸善1981.
54ぺ)
なるほど、正確には、現在使われている「グレゴリオ歴」以前は、ユリウス・シーザーが制定した「ユリウス歴」が使われてたのではなくて、4年に1度「うるう年」を入れる「ユリウス歴」の暦法は使われていたけれど、その紀元はシーザーが決めた紀元でなかったということになります。ユリウス・シーザー紀元の「ユリウス歴」は、彼がその後1年あまりで、暗殺されたことで、断ち切れになってしまったのです。上の「使いやすい」というのは、「復活祭の日にちを計算するのに」という意味のようです。
ローマの大修道院長のディオニシウス・エクシダヌスというのを調べなくてはなりませんね。青木信仰
『時と暦』 (東京大学出版会1982. 92ぺ)に
[DionysiusExiguus,530ADころ]とありました。『おもしろい暦の科学』(190ぺ)には、「で、ディオニシウスの新しい復活祭暦法表は、当時のローマ法王ボニファチウス2世によって認可されたのである。たしかに、このけんそんな修道僧は、自分が考え出した紀元がながく使われようとは予想もできなかった」とあります。してみると、ディオニシウスは暦学者の修道僧なのでしょうか。
また、同書によると、「この新しい紀元は、さらに1000年ほど学者たちには認められなかった。歴史家たちは、ローマ創建を基準にした年で、出来事の日付を記録しつづけていたのである。そして、17世紀になってようやく学者たちは、ディオニシウス暦を−イエス誕生から、またはそれ以前にさかのぼって−用いはじめた。」(同書191ぺ)
うーん、西暦が一般にかなり認定されてから、たかだか3−400年しかたってないということですね。してみると、西暦1000年のミレニアム祭なんかは、なかったことになるんですね。
ディオクレス紀元の248年が西暦の532年ですから、ディオクレス紀元1年は、西暦の284年ということになります。では、「ディオクレス紀元」の「ディオクレス」ってなんでしょう。 残念ながら、このことを書いてある本は見つけられませんでした。また、調べてみたいと思います。ローマ創建を基準にした年は、『世界大百科事典』(平凡社1972)「暦」の項では、「それは前753年とされている。」そうです。そのほか、エジプトでは、シリウス周期を紀元としたし、前1322年。ギリシャでは、オリンピック紀元前776年ということです。
私のホーム・ページをみたHさんが、 ディオクレスの資料を送ってくれました。それによると、
> ディオクレス(Diocles, 紀元前240-180).
>
ギリシャ、エウボエア、カリストスの生まれ。
>
自身の発見したシッソイドを倍積問題や角の3等分問題に応用。球を与えられた比に分割するアルキメデスの問題を解く。
>
放物面が焦点を持つことを示したことはギリシャ人からは忘れられたが、アラブの数学には強い影響を与えた。
[II.1]Analysis by its History
ディオクレス紀元1年は、西暦の284年ですから、 紀元前(240-180)のディオクレス.が紀元になるのは、理にあいません。「暦法・紀年法の歴史」のポーム・ページを開いている、abayamaさんにお尋ねしたり、本で調べると、どうもこのディオクレス.は、「ディオクレティアヌス」のことのようです。これで、話は繋がります。しかし、百科事典などにもこの表記で出ているディオクレティアヌスのことをディオクレス.と書くのは困ったことだなぁと思います。
ヨーロッパ(ローマ)でいつ頃から、西暦が用いられるようになって、その発明はだれかということだったのですが、それについては、解答がでました。近いうちに整理したものを書きたいと思っています。
これらの資料を単純に繋ぎ合わせて見ると ・明治 6年〜昭和29年(図 録):1386倍 ・昭和29年〜昭和57年(日 銀):4.88倍 ・昭和57年〜平成12年(総務省):1.23倍 明治6年〜平成12年で、約8300倍となります・・・さて この数字は??? |
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